تسجيل الدخولエレナが帰ったあとの部屋は、いつも少しだけ広く感じる。
机の端には、彼女が置いていった薬草茶の包みと、蜂蜜の焼き菓子がふたつ。今日は来るのが遅かったから、ひとつ分けて食べたきり、残りは明日の朝にと言われた。 僕は椅子の背にもたれて、窓辺に浮かぶ青い石を眺めた。 ひとつ、またひとつと、わずかに軌道がぶれている。 魔力の流れが乱れているのは、自分がいちばんよくわかっていた。原因も。 「ローレン家の門の前で、殿下とお会いしたの」 今日の夕方、エレナはいつもの椅子に座って、ひどく楽しそうにそう言った。 シア嬢の見舞いに行って、帰りに殿下と鉢合わせて、「ルカのところへ参ります。殿下に教わりましたので」と言って出てきたのだと。 僕は頭を抱えたくなるのを、どうにかこらえた。 彼女には悪意がひとかけらもない。だからこそ、言われた側には逃げ道がない。殿下の顔がどんな色になったか、見なくても想像がついた。 「エレナ。あまり殿下を追い詰めないほうがいい」 「追い詰める? 私は、殿下のお言葉をお守りしているだけよ」 「わかってる。わかってるけど、君の評判が」 「評判なら、皆さん、楽しそうに私の言葉を使ってくださっているわ。ミナが教えてくれたの」 そう言って笑う顔があんまり無邪気だったので、僕はそれ以上何も言えなくなった。 いつもそうだ。彼女の前では、言うべき言葉がひとつも出てこない。 エレナと初めて会ったのは、僕が十歳の冬だった。 その頃の僕は、一年の半分を寝台の上で過ごしていた。体に収まりきらない魔力が熱になって、額から胸から、内側を焼いた。医師は、成長すれば落ち着くと言った。落ち着く前に体が持つかどうかは、誰にもわからないとも。 隣の屋敷の小さな女の子が、母親に手を引かれて見舞いに来たのは、そんな夜が続いていた頃だった。 六歳のエレナは、真っ黒に焦げた焼き菓子を、大事そうにハンカチに包んで持ってきた。 「お母様に教わったの。初めて焼いたのよ。少し、焦げちゃったけど」 少しどころではなかった。ひと口かじると、苦くて、粉っぽくて、ひどい味がした。 でも、彼女がじっと僕の顔を見ていたから、全部食べた。 「おいしい?」 「……うん」 次の日も、その次の日も、エレナは来た。焼き菓子は少しずつ焦げなくなって、そのうち、ちゃんとおいしくなった。熱で眠れない夜には、寝台の横で絵本を読んでくれた。たどたどしい声で、ときどき字を読み間違えながら。 あの冬を越せたのは、たぶん、彼女のおかげだった。 十五で熱が出なくなり、十八で魔術院に入った。魔力を制御する術を覚えると、体に収まりきらなかったものは、そのまま僕の力になった。 強くなりたかった。今度は僕が、彼女を守れるくらいに。 二年前の春、僕は宮廷魔術師の位を授かった。 同期の中では、いちばん早い昇進だった。この位があれば、侯爵家の令嬢に求婚しても、恥ずかしくない。 授与式の翌日、僕はヴァレンティ家を訪ねた。手には、彼女の好きな白い薔薇の花束を持って。侯爵閣下にお目通りを願って、正式に話をするつもりだった。 玄関で僕を見つけたエレナは、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。 「ルカ! ちょうどよかった。聞いて、私ね」 頬を紅潮させて、彼女は言った。 「第二王子殿下と、婚約することになったの」 王妃殿下のお声がかりで、昨日のうちに決まったのだと。侯爵家にとって、これ以上ない縁談なのだと。 「おめでとう」と言えたのは、自分でも上出来だったと思う。 花束は、「宮廷魔術師になったお祝いに、自分で買ったんだ」と言った。彼女は「素敵ね」と笑って、香りを嗅いだ。 その日の夜、僕は魔術院の自室で、自分の気持ちに封をした。 魔術師が魔力を封じるときのように、丁寧に、何重にも。 王家に嫁ぐ人を、想い続けてはいけない。せめて彼女の幸せの邪魔にならないように、距離を置こう。会わなければ、いつか忘れられる。 そう決めて、二年間、本当に会わなかった。 それなのに。 五日前、扉を開けたら、彼女がそこにいた。籠いっぱいの蜂蜜の焼き菓子を抱えて、「殿下に教わりましたので」と笑って。 理由を聞いたとき、正直なところ、殿下を少しだけ哀れに思った。 それ以上に、ひどく腹が立った。三度も約束を破って、寂しい思いをさせて、その上で「当然だ」と言い放ったのか。彼女が、どんな顔で薔薇園に座っていたかも知らずに。 でも、いちばん許せないのは、自分自身だった。 彼女の勘違いだとわかっている。殿下の言葉を真面目に守っているだけで、僕に会いたくて来ているわけじゃない。 わかっているのに、毎朝、扉の向こうの足音を待っている。 彼女が座れるように椅子を掘り出して、床の羊皮紙を片付けて。額に手を当てられたときは、二年かけて施した封が、音を立てて軋んだ。 ぱきん、と乾いた音がした。 窓辺の青い石のひとつに、細いひびが入っていた。 僕は立ち上がって、その石を手のひらに受け止めた。中に閉じ込めた魔力が、ひびの隙間から、かすかに熱を帯びて漏れている。 魔力は、心と繋がっている。どれだけ制御の術を覚えても、そこだけは変えられない。 封をした気持ちが揺れれば、魔力も揺れる。 「……まずいな」 ひびの入った石を握りしめて、僕は目を閉じた。 彼女は、殿下の婚約者だ。僕が何かを望んでいい相手じゃない。 明日も、彼女は来るだろう。あの椅子に座って、何も知らずに笑うだろう。 そのたびに、封はきっと、少しずつ緩んでいく。シア様が初めてヴァレンティ家へいらしたのは、ローレン家を訪ねてから四日後の、よく晴れた午後だった。 「お体は大丈夫ですか。無理はなさらないでくださいね」 「今日は朝から、とても調子がいいんです。母には、エレナ様に焼き菓子を習いに行くと言ったら、喜んで送り出してくれました」 馬車から降りたシア様は、淡い水色の外出着を着ていた。ショールを羽織っていない姿を見るのは、初めてだった。 厨房に案内すると、料理長が目を白黒させた。侯爵家の令嬢と子爵家の令嬢が並んで前掛けをつける光景は、さすがに見たことがなかったらしい。 「本日は、私どもは手を出さないほうがよろしいので?」 「ええ。見ていてくださるだけで大丈夫よ」 料理長はしぶしぶ、けれどどこか楽しそうに、厨房の隅の椅子に腰を下ろした。 最初に作るのは、いちばん簡単な、バターの焼き菓子にした。 「バターは、指で押してすっと沈むくらいまで柔らかくしておくんです。砂糖を入れたら、白っぽくふわっとなるまで混ぜて」 「こう、ですか」 シア様は真剣な顔で木べらを動かした。腕に力が入りすぎて、ボウルがかたかたと揺れる。 「もう少し、ゆっくりで大丈夫ですよ。急がなくても、ちゃんと白くなりますから」 私はシア様の後ろに回って、木べらを持つ手にそっと手を添えた。母に初めて教わったときも、こうしてもらった。 「……本当だわ。色が、変わってきました」 「ね。ここが、いちばん楽しいところなんです」 粉を振るって、卵を少しずつ足して、生地をまとめる。シア様は一つひとつの手順を、口の中で小さく繰り返していた。 型で抜いた生地を天板に並べ終えると、シア様は粉で白くなった自分の手を、不思議そうに眺めた。 「自分の手で何かを作るなんて、初めてかもしれません」 「刺繍は? 貴族の令嬢は、みんな習うでしょう」 「熱を出すと、針を持つ手が震えてしまって。母が、危ないからやめなさいと」 シア様は少し笑った。 「ずっと、何もしないことが私の仕事だったんです。寝ていること。熱を出さないこと。人様にご迷惑をかけないこと」 窯から、バターの焼ける甘い匂いが漂いはじめていた。 「シア様」 「はい」 「焼き上がるまで、お茶にしましょう。焼き菓子は、待っている時間もおいしさのうちなんです」 シア様は目を瞬かせて、それから、ふわり
エレナが帰ったあとの部屋は、いつも少しだけ広く感じる。 机の端には、彼女が置いていった薬草茶の包みと、蜂蜜の焼き菓子がふたつ。今日は来るのが遅かったから、ひとつ分けて食べたきり、残りは明日の朝にと言われた。 僕は椅子の背にもたれて、窓辺に浮かぶ青い石を眺めた。 ひとつ、またひとつと、わずかに軌道がぶれている。 魔力の流れが乱れているのは、自分がいちばんよくわかっていた。原因も。 「ローレン家の門の前で、殿下とお会いしたの」 今日の夕方、エレナはいつもの椅子に座って、ひどく楽しそうにそう言った。 シア嬢の見舞いに行って、帰りに殿下と鉢合わせて、「ルカのところへ参ります。殿下に教わりましたので」と言って出てきたのだと。 僕は頭を抱えたくなるのを、どうにかこらえた。 彼女には悪意がひとかけらもない。だからこそ、言われた側には逃げ道がない。殿下の顔がどんな色になったか、見なくても想像がついた。 「エレナ。あまり殿下を追い詰めないほうがいい」 「追い詰める? 私は、殿下のお言葉をお守りしているだけよ」 「わかってる。わかってるけど、君の評判が」 「評判なら、皆さん、楽しそうに私の言葉を使ってくださっているわ。ミナが教えてくれたの」 そう言って笑う顔があんまり無邪気だったので、僕はそれ以上何も言えなくなった。 いつもそうだ。彼女の前では、言うべき言葉がひとつも出てこない。 エレナと初めて会ったのは、僕が十歳の冬だった。 その頃の僕は、一年の半分を寝台の上で過ごしていた。体に収まりきらない魔力が熱になって、額から胸から、内側を焼いた。医師は、成長すれば落ち着くと言った。落ち着く前に体が持つかどうかは、誰にもわからないとも。 隣の屋敷の小さな女の子が、母親に手を引かれて見舞いに来たのは、そんな夜が続いていた頃だった。 六歳のエレナは、真っ黒に焦げた焼き菓子を、大事そうにハンカチに包んで持ってきた。 「お母様に教わったの。初めて焼いたのよ。少し、焦げちゃったけど」 少しどころではなかった。ひと口かじると、苦くて、粉っぽくて、ひどい味がした。 でも、彼女がじっと僕の顔を見ていたから、全部食べた。 「おいしい?」 「……うん」 次の日も、その次の日も、エレナは来た。焼き菓子は少しずつ焦げなくなって、そのうち、ちゃんとおいしくなった。熱で
ローレン子爵家のお屋敷は、王都の西の外れにあった。 こぢんまりとした二階建てで、門から玄関までの小道には、手入れの行き届いた鉢植えが並んでいる。壁の漆喰は少し古びていたけれど、窓という窓がきれいに磨かれていて、住んでいる人たちの丁寧さが伝わってきた。 籠の中には、シア様のために焼いたレモンの焼き菓子と、ルカの部屋にも持っていっている薬草茶の葉を少し。熱の多い方には、喉にやさしいものがいい。 出迎えてくださったのは、ローレン子爵夫人だった。 「まあ、ヴァレンティ侯爵家のお嬢様に、わざわざ足を運んでいただけるなんて」 夫人は私の手を両手で包んで、何度も頭を下げた。その目が、私の後ろの侯爵家の馬車と、私の着ている外出着の刺繍を、すばやく行き来したのがわかった。 「娘も、きっと喜びますわ。殿下もよく、あの子のところへお越しくださるのですけれど――」 「お母様」 階段の上から、細い声がした。 「お客様をお待たせしないで」 シア様のお部屋は、二階の日当たりのいい角部屋だった。 長椅子に掛けたシア様は、肩に厚手のショールを羽織っていた。夜会で見たときよりも、さらにほっそりして見える。けれど顔色は思っていたより悪くなくて、私は少しほっとした。 「ようこそお越しくださいました、ヴァレンティ様。お呼び立てして、申し訳ございません」 「エレナで結構です。お加減はいかがですか」 「今日は、ずいぶん楽なんです」 シア様は微笑んで、私に向かいの椅子を勧めてくださった。侍女がお茶を運んできて、部屋を出ていく。扉が閉まると、シア様はショールの端をぎゅっと握った。 「エレナ様。まずは、お礼を。あのレモンのお菓子、本当においしかったです」 「よかった。今日も焼いてきたのです」 籠を差し出すと、シア様は目を丸くして、それから両手でそっと受け取った。 「……こういうものをいただくのは、久しぶりです」 「お見舞いのお品は、たくさん届くのではありませんか」 「花やお薬は。でも、手作りのものは」 シア様は籠の蓋を撫でながら、ぽつりと言った。 「子どもの頃から、熱を出してばかりで。学院にもほとんど通えなかったので、お友達と呼べる方がいないんです」 私は少し考えて、薬草茶の包みも差し出した。 「これは、熱のあるときに飲むお茶です。カモミールと、レモンバームと、薄荷
公爵夫人の茶会から三日が経った朝、私は屋敷の裏庭で、冬に向けて薬草の株を植え替えていた。 カモミールと、レモンバームと、薄荷。どれもルカの部屋に持っていくお茶の材料だ。土の具合を確かめながら根を広げていると、ミナが洗濯籠を抱えたまま、妙に神妙な顔でやってきた。 「お嬢様。少々、お耳に入れておきたいことが」 「なあに?」 「市場で、おかしな言い回しが流行っているそうなのです」 ミナは籠を地面に置いて、声を落とした。 「今朝、出入りの八百屋のおかみさんが申しておりました。旦那さんが、酒場の仲間との約束を優先して、娘の誕生日の食事をすっぽかしたそうで」 「まあ、かわいそうに」 「それで、おかみさんは次の日、旦那さんの夕飯を作らずに実家に帰ったそうです。『旦那様に教わりましたので』と書き置きを残して」 私は移植ごてを持ったまま、瞬きをした。 「……それは、どういう意味なの?」 「公爵夫人の茶会でのお嬢様のお言葉が、もう街まで広まっているのです。昔馴染みを優先するのが当然なら、こちらもそうさせていただきます、という意味で」 ミナの口の端が、ほんの少し持ち上がっている。 「仕立て屋の奥様も、商会の若奥様も、皆さま使っておられるとか。ご亭主が言い返せなくなるので、たいそう重宝されているそうですよ」 「皆さん、勉強熱心なのね」 「……ええ、本当に」 ミナはなぜか、空を見上げて肩を震わせた。 殿下がいらしたのは、その日の昼過ぎだった。 先触れもなく、ヴァレンティ家の玄関に王家の馬車が止まったので、執事が慌てて私を呼びに来た。土で汚れた手を急いで洗い、応接間に入ると、殿下は座りもせずに窓辺に立っていらした。 「エレナ」 振り向いた殿下の目の下には、うっすらと隈があった。 「ようこそおいでくださいました。お茶をお持ちしますね」 「いらない。話がある」 殿下は大股で近づいてきて、私の前で足を止めた。 「街で、妙な言葉が流行っているのを知っているか」 「はい。今朝、ミナから聞きました」 「兄上にまで言われた。お前は婚約者に何を教えているんだ、とな。母上は何もおっしゃらないが、目を合わせてくださらない」 殿下は苛立たしげに髪をかき上げた。 「あれは、そういう意味で言ったんじゃない」 「では、どういう意味だったのでしょう」 私は本当に
茶会の当日、殿下は約束の時刻ぴったりに、ヴァレンティ家の玄関へいらした。 釦はすべて留まっていて、髪も整えられている。私の手を取って馬車に乗せてくださる仕草は、婚約したばかりの頃のように丁寧だった。 「今日は、シア様のお加減はよろしいのですか」 「ああ。……今日は、君との約束だからな」 殿下はそう言って、窓の外に目を向けた。どこか得意げな横顔だった。 私は膝の上で手を重ねて、心の中で時間を数えた。ルカの魔力調整は、三つ目の鐘が鳴る頃から始まる。茶会が始まるのは二つ目の鐘。少しだけなら、ご挨拶をしてから出られるはずだ。 マルグリット公爵夫人のお屋敷の庭には、秋咲きの薔薇が見事に咲き揃っていた。 長いテーブルには十人ほどの夫人や令嬢が並び、焼き菓子の甘い香りが漂っている。 「まあ、殿下。ヴァレンティ嬢も。ようこそいらしてくださいました」 白髪をきれいに結い上げた公爵夫人が、扇を傾けて微笑んだ。この方は社交界でいちばん耳が早いと、王子妃教育の先生がおっしゃっていた。 殿下と並んで席につくと、向かいの伯爵夫人が身を乗り出した。 「お二人が揃っていらっしゃるのは、久しぶりですわね」 「最近、殿下はローレン嬢のお見舞いでお忙しいと伺っておりましたけれど」 くすくすと笑い声が漏れる。殿下の肩が、わずかに強張った。 「シアは幼なじみだ。体が弱いのだから、気にかけるのは当然だろう」 「ええ、ええ。殿下はお優しくていらっしゃるから」 扇の陰で交わされる目配せの意味は、私にはよくわからなかった。 お茶を一杯いただいて、公爵夫人のお庭の薔薇をひととおり褒めた頃、遠くで三つ目の鐘が鳴った。 私はカップを置いて、静かに立ち上がった。 「公爵夫人。たいへん申し訳ございませんが、私はこれで失礼いたします」 テーブルの会話が、ぴたりと止まった。 「まあ。何かご用事が?」 「はい。幼なじみのルカ・ノーランが、今日の午後に魔力の調整を受けるのです。付き添うと約束しておりますので」 「ノーラン……宮廷魔術師の?」 「はい」 隣で、殿下が勢いよく顔を上げた。 「待て、エレナ。今日は俺がエスコートしているんだぞ」 「はい。ここまで送っていただいて、ありがとうございました」 「そういうことではない。婚約者を置いて、他の男のところへ行くつもりか」 声が大
魔術院に通い始めて、五日が経った。一日目は、熱を下げる薬草茶を持っていった。ルカは「熱はないよ」と言いながら、二杯飲んだ。二日目は、床に積もった羊皮紙を少し片付けた。ルカが青い顔で「それは順番があるんだ」と止めに来たので、元に戻した。どこにあったか覚えていたので、怒られずに済んだ。三日目は、お昼を持っていった。ルカは朝から何も食べていなかった。四日目は、雨だった。それでも行った。そして五日目の今日、扉を開けると、机の横に椅子がひとつ置いてあった。昨日までは本の山に埋もれていたはずの椅子だ。座面には、埃ひとつない。「ルカ、椅子が出てきたわ」「……出てきたね」ルカは羊皮紙から目を上げないまま、ペン先で椅子を指した。座っていい、という意味らしい。腰を下ろしてから、私は感心して部屋を見回した。床の羊皮紙も、心なしか減っている気がする。「片付けたの?」「たまたまだよ」「ルカも几帳面になったのね」「…………」返事がなかったので、たぶん照れているのだと思う。昔から、褒められるのが苦手な人だった。今日の籠の中身は、胡桃のパンと、鶏肉と根菜の煮込みだ。煮込みは瓶に詰めて、冷めないように布で何重にも巻いてきた。「お昼にしましょう」「あと少しで計算が終わるから」「昨日もそう言って、結局夕方まで召し上がらなかったでしょう」ルカはペンを持ったまま固まり、それから諦めたように机の上に場所を空けた。煮込みをひと口食べたルカが、小さく目を見開く。「……これ、君が?」「料理長に教わって、少しだけ。お口に合う?」「うん」ルカはそれきり黙って、あっという間に瓶を空にした。黙って食べるのは、おいしいときのルカの癖だ。これも、昔と変わらない。お皿を片付けていると、扉の外から小さな話し声が聞こえてきた。「今日もいらしてるぞ」「ノーラン様が昼休みを取ってる……」「信じられない。あの人、先月は三日寝ずに結界の論文書いてたんだぞ」ルカの同僚の魔術師たちだ。ここ数日、廊下ですれ違うたびに、なぜか拝むような目で見られる。「皆さん、親切ね。昨日はお花を分けてくださった方もいたのよ」「……あいつら、あとで仕事を倍にしておく」「どうして?」「何でもない」ルカはこめかみを押さえて、溜め息をついた。そのとき、窓辺に浮かんでいた青い石のひとつが、ぱちりと音を







