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第7話 封をした春

مؤلف: 春野ケイ
last update تاريخ النشر: 2026-10-25 08:30:33

エレナが帰ったあとの部屋は、いつも少しだけ広く感じる。

机の端には、彼女が置いていった薬草茶の包みと、蜂蜜の焼き菓子がふたつ。今日は来るのが遅かったから、ひとつ分けて食べたきり、残りは明日の朝にと言われた。

僕は椅子の背にもたれて、窓辺に浮かぶ青い石を眺めた。

ひとつ、またひとつと、わずかに軌道がぶれている。

魔力の流れが乱れているのは、自分がいちばんよくわかっていた。原因も。

「ローレン家の門の前で、殿下とお会いしたの」

今日の夕方、エレナはいつもの椅子に座って、ひどく楽しそうにそう言った。

シア嬢の見舞いに行って、帰りに殿下と鉢合わせて、「ルカのところへ参ります。殿下に教わりましたので」と言って出てきたのだと。

僕は頭を抱えたくなるのを、どうにかこらえた。

彼女には悪意がひとかけらもない。だからこそ、言われた側には逃げ道がない。殿下の顔がどんな色になったか、見なくても想像がついた。

「エレナ。あまり殿下を追い詰めないほうがいい」

「追い詰める? 私は、殿下のお言葉をお守りしているだけよ」

「わかってる。わかってるけど、君の評判が」

「評判なら、皆さん、楽しそうに私の言葉を使ってくださっているわ。ミナが教えてくれたの」

そう言って笑う顔があんまり無邪気だったので、僕はそれ以上何も言えなくなった。

いつもそうだ。彼女の前では、言うべき言葉がひとつも出てこない。

エレナと初めて会ったのは、僕が十歳の冬だった。

その頃の僕は、一年の半分を寝台の上で過ごしていた。体に収まりきらない魔力が熱になって、額から胸から、内側を焼いた。医師は、成長すれば落ち着くと言った。落ち着く前に体が持つかどうかは、誰にもわからないとも。

隣の屋敷の小さな女の子が、母親に手を引かれて見舞いに来たのは、そんな夜が続いていた頃だった。

六歳のエレナは、真っ黒に焦げた焼き菓子を、大事そうにハンカチに包んで持ってきた。

「お母様に教わったの。初めて焼いたのよ。少し、焦げちゃったけど」

少しどころではなかった。ひと口かじると、苦くて、粉っぽくて、ひどい味がした。

でも、彼女がじっと僕の顔を見ていたから、全部食べた。

「おいしい?」

「……うん」

次の日も、その次の日も、エレナは来た。焼き菓子は少しずつ焦げなくなって、そのうち、ちゃんとおいしくなった。熱で眠れない夜には、寝台の横で絵本を読んでくれた。たどたどしい声で、ときどき字を読み間違えながら。

あの冬を越せたのは、たぶん、彼女のおかげだった。

十五で熱が出なくなり、十八で魔術院に入った。魔力を制御する術を覚えると、体に収まりきらなかったものは、そのまま僕の力になった。

強くなりたかった。今度は僕が、彼女を守れるくらいに。

二年前の春、僕は宮廷魔術師の位を授かった。

同期の中では、いちばん早い昇進だった。この位があれば、侯爵家の令嬢に求婚しても、恥ずかしくない。

授与式の翌日、僕はヴァレンティ家を訪ねた。手には、彼女の好きな白い薔薇の花束を持って。侯爵閣下にお目通りを願って、正式に話をするつもりだった。

玄関で僕を見つけたエレナは、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。

「ルカ! ちょうどよかった。聞いて、私ね」

頬を紅潮させて、彼女は言った。

「第二王子殿下と、婚約することになったの」

王妃殿下のお声がかりで、昨日のうちに決まったのだと。侯爵家にとって、これ以上ない縁談なのだと。

「おめでとう」と言えたのは、自分でも上出来だったと思う。

花束は、「宮廷魔術師になったお祝いに、自分で買ったんだ」と言った。彼女は「素敵ね」と笑って、香りを嗅いだ。

その日の夜、僕は魔術院の自室で、自分の気持ちに封をした。

魔術師が魔力を封じるときのように、丁寧に、何重にも。

王家に嫁ぐ人を、想い続けてはいけない。せめて彼女の幸せの邪魔にならないように、距離を置こう。会わなければ、いつか忘れられる。

そう決めて、二年間、本当に会わなかった。

それなのに。

五日前、扉を開けたら、彼女がそこにいた。籠いっぱいの蜂蜜の焼き菓子を抱えて、「殿下に教わりましたので」と笑って。

理由を聞いたとき、正直なところ、殿下を少しだけ哀れに思った。

それ以上に、ひどく腹が立った。三度も約束を破って、寂しい思いをさせて、その上で「当然だ」と言い放ったのか。彼女が、どんな顔で薔薇園に座っていたかも知らずに。

でも、いちばん許せないのは、自分自身だった。

彼女の勘違いだとわかっている。殿下の言葉を真面目に守っているだけで、僕に会いたくて来ているわけじゃない。

わかっているのに、毎朝、扉の向こうの足音を待っている。

彼女が座れるように椅子を掘り出して、床の羊皮紙を片付けて。額に手を当てられたときは、二年かけて施した封が、音を立てて軋んだ。

ぱきん、と乾いた音がした。

窓辺の青い石のひとつに、細いひびが入っていた。

僕は立ち上がって、その石を手のひらに受け止めた。中に閉じ込めた魔力が、ひびの隙間から、かすかに熱を帯びて漏れている。

魔力は、心と繋がっている。どれだけ制御の術を覚えても、そこだけは変えられない。

封をした気持ちが揺れれば、魔力も揺れる。

「……まずいな」

ひびの入った石を握りしめて、僕は目を閉じた。

彼女は、殿下の婚約者だ。僕が何かを望んでいい相手じゃない。

明日も、彼女は来るだろう。あの椅子に座って、何も知らずに笑うだろう。

そのたびに、封はきっと、少しずつ緩んでいく。

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